ジェニーの部屋に辿り着いたのは16時丁度だった。「キャアッ! どうしたの、ジェニファー!」ジェニファーの姿を見た途端、ジェニーは悲鳴をあげた。それもそのはず、今のジェニーは酷い有り様をしていたからだ。綺麗な服にはあちこちが汚があり、髪の毛にはところどころに草がついている。手は擦り切れ、血が滲んでいた。ジェニファーは実際ここにたどり着くまでに、多くの使用人たちに出会って驚かれてしまった。中には怪我の治療を申し出てくるメイドもいた。けれどジェニファーは申し出を断って真っ直ぐにジェニーの元へ戻ってきたのだ。「ここへ戻る時に途中で転んでしまったの。私ってドジよね、でも時間までには間に合ったでしょう?」肩で息をしながら笑うジェニファーをじっとジェニーは見つめている。「そんなことより、怪我をしているじゃない! すぐに手当をしてもらわないと!」ジェニーはポケットから小さな呼び鈴を取り出しチリンチリンと鳴らした。するとすぐにメイドが現れた。「お呼びですか? ジェニー様」「ジェニファーが怪我をして帰ってきたの。すぐに手当をしてあげてくれる?」「はい! 今、救急箱を取ってまいります!」メイドが一度部屋を出ると、ジェニーは早速質問した。「ジェニファー、どうしてこんな事になってしまったの? まさか時間に間に合わせるために走ってきたのじゃないかしら?」「え、ええ。そうなの……あ、その前に」ジェニファーは被っていた帽子を取ると、ブローチを外した。「はい、ジェニファー。お土産のブローチよ」「まぁ……可愛い。ありがとう、ジェニファー」「あのね、このブローチ……実はニコラスが買ってくれたの。ジェニーのためにって」ブローチはニコラスがジェニファーの為に買ってくれたものだった。だから本当は欲しかったのだが、ジェニーの為に我慢することにしたのだ。(そうよ。ニコラスは私がジェニーだと思っているのだから……これでいいのよ)無理に自分に言い聞かせ、諦めるジェニファー。「え? ニコラスが……私に買ってくれたの?」ジェニーの顔は嬉しそうだった。「そうよ、だから私からは本をプレゼントさせて」ジェニファーは小脇に抱えていた本をさしだした。「ありがとう、見せてもらうわね……まぁ素敵! まるで写真のようだわ」「風景画の画集なの。ジェニーは、外へ出ることが出来ない
「ジェニーはどんな本を探しているの?」2人で本棚を見つめていると、ニコラスが尋ねてきた。「そうねぇ、どんな本がいいかしら……」(ジェニーが持っているのと同じ本を買ってしまったら駄目よね)ジェニファーはジェニーがどの様な本を所有しているか全く分からなかった。「ねぇ、それじゃこれなんかどう?」ニコラスが本棚から一冊取り出すとページを開いた。そこには文字がびっしり書かれており、ジェニファーにはところどころしか読むことが出来なかった。「これ、ファンタジー小説だよ。僕も好きなシリーズなんだ」「そ、そうなのね……。でも小説もいいけど、素敵な絵がある本もいいわ」自分は今、ジェニーとしてニコラスに接している。本を読めないことを知られるわけにはいかなかった。「そうだよね。ジェニーは女の子だから、挿絵がある本のほうが良いかもね。ならどれがいいかな〜」「それなら、画集はどうかな?」突然背後で声が聞こえ、驚いた二人は振り向いた。するといつのまにか笑顔の店主が近くに来ていたのだ。「画集ですか?」ジェニファーが尋ねると、店主は頷く。「そうだよ、これなんかお勧めだと思うけどね」店主は棚から一冊抜き取ると、ジェニファーに差し出した。ジェニファーは早速ページをめくるってみると、まるで写真のように美しい絵画が目に飛び込んできた。青い空に緑の草原、美しい湖畔……。絵に詳しくないジェニファーでも、この画集の素晴らしさが分かった。(これなら、身体が弱くて外に出られないジェニーも喜んでくれるかも……)「素敵な画集だね」一緒に見ていたニコラスが声をかけてきた。「うん、本当に素敵……。私、これを買うことにするわ」ジェニファーは笑顔で画集を抱えた――****「ありがとうございました」店主の声に見送られ、2人は外に出た。ジェニファーは小脇に画集を抱えている。「何だかとても嬉しそうだね?」ニコラスの言葉にジェニファーは頷く。「それは嬉しいわよ。だって、こんなに素敵な画集を買えたんだもの」「ねぇ、ジェニー。それじゃ次は何処へ行く?」「次は……? ちょっと待ってくれる?」そこでジェニファーは懐中時計を取り出して時間を確認した。すると時刻は既に15時45分になっていた。(大変! もうこんな時間だわ!)「どうしたの? ジェニー?」「ごめんなさい、ニコラ
アクセサリー屋さんを出ると、ニコラスはじっとジェニファーを見つめた。「な、何?」あまり同世代の男の子と接したことがないジェニファーは気後れしながら首を傾げる。「そのウサギのブローチを見ていたんだ。うん、やっぱりジェニーに良く似合ってる。可愛いよ」「あ、ありがとう」(きっとブローチが可愛いという意味で言ったのよね)分かってはいたものの、ドキドキしながらお礼を述べた。「ジェニー、これからどうする? 何処か行きたい場所はある?」「そうねぇ……」こんなときでも、ジェニファーの頭の中にはジェニーのことが消えなかった。1人寂しく部屋で過ごしているジェニーを思うと、罪悪感がこみ上げてくる。「どうかしたの? ジェニー」「う、ううん。なんでもないわ。そうね……本屋さんにいってみたいわ」本をお土産に買っていけば、自分が留守の間もジェニーは寂しい思いをしなくても済むかもしれない。心優しいジェニファーは、そう考えたのだ。「本屋さんか……うん、いいね。僕も本を読むのが好きだし……それじゃ、一緒に行こう!」ニコラスは笑顔でジェニーの右手を繋いできた。「う、うん。そうね、行きましょう」ジェニファーは返事をすると、二人は仲良く手を繋いで本屋さんを目指した。「ジェニー、あのお店はキャンディー屋さんだよ。それで、あの店は手芸店」歩きながら、ニコラスは様々な店を教えてくれる。「ニコラスは、この町のことが詳しいのね」最初は手を繋いで歩くことに緊張していたジェニファーだったが、今は自然に歩くことが出来ていた。「うん、まぁね。……今住んでいる城には僕の居場所は無いから。だからなるべく町に出ているようにしているんだ。一人ではあまり楽しくも無いけどね」「あ……」その言葉にジェニファーは思い出した。(確かニコラスも私と一緒で、他所の家にお世話になっているのだったわ)けれど、ジェニファーはフォルクマン伯爵家の暮らしにとても満足していた。伯爵もジェニーも、それに使用人たちも皆とても親切だ。美味しい料理に綺麗なドレスを与えられ、ずっと希望していた勉強もさせてもらっている。何不自由無い暮らしをさせてもらっているのだ。けれど、きっとニコラスは違うのだろう。そんなニコラスを見ていると、気の毒に思えた。「大丈夫よ、ニコラス。私がいるもの。だって、私達は友達でしょ
「ここがこの町で一番大きなアクセサリー屋さんだよ」ニコラスが案内してくれた店は赤レンガ造りの建物だった。扉には『手作りアクセサリーの店』と書かれた看板が取り付けられている。「手作りのアクセサリー屋さんなの?」「そうみたいだね。僕は一度も中へ入ったことが無いけど。それじゃ入ろうよ」アクセサリーの店へ入るのが初めてだったジェニファーは少し気後れしてしまった。(でも……私みたいな子供が入っていいのかしら……?)「どうしたの? ジェニー。中へ入ろうよ」ニコラスがジェニファーの手を引っ張る。「え、ええ。入るわ」頷くと、ニコラスは扉を開けて2人は店内に入った。「わぁ……」中に入った途端、ジェニファーは感嘆のため息をついた。店内には何台もの棚が置かれ、ネックレスや指輪等様々なアクセサリーが並べられていた。奥のカウンターにいた女性店員が2人に気付いた。「いらっしゃいませ……あら?」「こ、こんにちは」「僕たちはアクセサリーを見に来ました」子供だけで来たことに女性店員は一瞬困惑したが、2人の身なりがとても良いことにすぐに気付いた。(きっと、何処かのお金持ちか貴族に違いないわ)「何をお探しですか?」店員の質問にニコラスはジェニファーを振り返った。「ジェニー。どんなアクセサリーが欲しいの?」「ブローチが欲しいのだけど……」「ええ、ありますよ。こちらの棚にあります」女性店員の案内で、2人はブローチの棚の前にやってきた。そこには花の形をしたものや、動物の形を模したブローチ等が並べられている。「まぁ素敵!」初めて見る美しいデザインにジェニファーの目が大きく見開かれる。「ジェニー、どれがいいの?」「そうね……」どんなデザインのブローチがジェニーに似合うかと、ジェニファーは想像してみる。そして、一つのデザインブローチに目がいった。「これ……可愛くて、素敵だわ」それはウサギの形をしたブローチだった。目の部分には赤く光る小さな石が埋め込まれている。「こちらのウサギのブローチがお気に召しましたか?」「はい。とても気に入りました」女性店員の言葉に頷くジェニファー。「こちらの品は銀貨3枚になりますが、お買い上げされますか?」「銀貨3枚……」ジェニファーは毎週、伯爵家から金貨1枚を貰っている。銀貨10枚分が、金貨1枚なので今のジェニ
「フフフ……本当に、ここは素敵な場所だわ」今日も雲一つ無い青空の下、ジェニファーは元気よく町へ向って丘を降りていった。ジェニーには悪いが、ジェニファーは外出する時間をとても楽しみにしていた。フォルクマン伯爵邸に招かれてから教会へ行くまでの間、殆ど屋敷の外へ出たことが無かったからだ。あるとすれば、せいぜい屋敷の中庭を散策する位だった。もともと、家にいた時も田舎の村に住んでいたいので自然が溢れていた。ジェニファーは朝から晩まで忙しく働いていたので屋敷の中でじっとしているのは性に合わなかったのだ。辛い家事をしなくて済んでいたことはジェニファーにとっては大きな喜びであったけれども、贅沢を言えば外出して色々な場所を訪れてみたい……。それがジェニファーのささやかな夢だったのだ。その夢を、こんな形で叶えてくれたジェニーに感謝の気持で一杯だった。「今日の出来事は全て教えてあげなくちゃ」ジェニファーは自分に言い聞かせるのだった――**** 待ち合わせ場所に行ってみると、既にニコラスの姿があった。「お待たせ! ニコラス!」元気よく手を振ると、ニコラスも気づいて手を振り返す。ジェニファーは駆け足で向うと、笑顔で挨拶された。「こんにちは、ジェニファー」「こんにちは、ニコラス。ごめんなさい、待った?」「う〜ん。待ったと言っても5分くらいだよ。今日、ジェニファーと遊べるのが嬉しくて早く出てきたんだ」「そうなの? そう言って貰えると嬉しいわ」実際、友達らしい友達がいなかったジェニファーにとっては嬉しい言葉だった。「それで昨日、ジェニファーにどんなお礼をしたいか色々迷ったんだけど……良い考えが浮かばなくて。本とかはどうかな?」「本?」「うん、僕は本を読むのが大好きでね。今は伝記を読んでいるんだ。だからお礼に本を考えていたんだけど」ニコラスの言葉に、ジェニファーは答えをつまらせてしまった。簡単な文章しか読めないジェニファーは絵本ぐらいしかまだ読むことが出来ない。今ジェニーになりきっていながら、絵本を手に取ろうものなら怪しまれてしまうかもしれない。「いいのよ、お礼なんて。だって本当に大したことはしていないもの。救急箱だって教会から借りたものを使わせて貰っただけだし。だから気にしないで?」「そんなわけにはいかないよ。だって、今日はお礼をするために
翌日13時半――外出着に着替えたジェニファーはジェニーの部屋にいた。そろそろ町へ出発する時間が迫っている。「はい、ジェニファー。これを持っていって」ジェニーが懐中時計を差し出してきたので、受け取るジェニファー。「これは……時計?」「ええ、そうよ。これがあれば、いつでも時間を確認することが出来るでしょう?」「ありがとう、借りていくわね。無くさないように大切に持っていくわ」ジェニファーの言葉にジェニーは首を振った。「あら、違うわ。その時計はジェニファーにあげるものよ」「え!? こんな高級そうな懐中時計を?」懐中時計は高級な品であり、庶民にはまだまだ手の届かない品物であった。それなのにプレゼントしてくれたことにジェニファーは驚きを隠せない。「ええ、あげるわ。私達の友情の証よ? それで、ジェニファー。ニコラスと会う時は……その、私の名前で会っているのよね?」「そうよ、ニコラスは私がジェニーだと思っているわ」本当は、ニコラスにも教会にも嘘をつきたくは無かった。ジェニーとしてではなく、ジェニファーとして、皆の前に現れたかった。けれど、そんなことは口が裂けてもジェニーの前では言えない。ジェニーはジェニファーのことを友達だと言ってくれてはいるけれども、その立場は対等では無いのだから。「そうなのね? ニコラスは私だと思っているのね?」嬉しそうに笑顔を見せるジェニーを見つめて、ジェニファーは思う。(そうよ、私の役目はジェニファーを笑顔にすることなのだから)「それじゃ、そろそろ行ってくるわね」ジェニファーは帽子をかぶり、ショルダーバッグを肩からかけた。「ええ、行ってらっしゃい」「何か、お土産買ってきましょうか?」「お土産? どんな?」ジェニーの言葉に、ジェニファーは少し考え込む。「う〜ん……そうね。例えば……キャンディーとか、クッキーとか……」「お菓子は沢山あるから大丈夫よ」「だったら何がいいかしら?」「なら、アクセサリーがいいわ。ブローチが欲しいの」「どんなブローチがいいの?」アクセサリーのことが良く分らないジェニファーは首を傾げた。「そうね……あ、それなら動物の形をしたブローチがいいわ」「動物の形ね、分かったわ。素敵なのを見つけて買ってくるわね」「お金は大丈夫なの? あげましょうか?」ジェニーの顔に心配そうな表情